石川島

石川島

 佃一丁目というのは昔の佃島で、これを囲む石川島の部分が佃一・二丁目になって高層マンションが林立しているわけです。佃の隣にあった洲島を石川八左右衛門重次が拝領したのが1626年。この辺には隅田川が運んでくる土砂の堆積によって、自然に洲島ができるのです。
 歴史作家の岳宏一郎先生に教えていただいたのですが、佃島と石川島の間を埋め立てて人足寄場をつくったのは、かの火付盗賊改メ方長谷川平蔵なんだそうです。1790年のことです。僕は『鬼平犯科帳』は読んでないのでよく知らないのですが、当時江戸には30万人くらいの無宿人がいて、彼らをこの島に送り込んで仕事を覚えさせ(授産所ですな)、その中でもマネジメント能力のある奴にはまとまった金を与え、人を雇わせて商売をやらせたらしいです。
 こういう施設は石川島と筑波につくったらしい。
 つまり石川島は江戸期のビジネス・インキュベーターだったのです。


 この人足寄席場は、その後石川島懲役場になります。さらに幕末1853年、ペリー来航に脅威を覚えた幕府は、水戸藩主徳川斉昭に命じて、ここに石川島造船所をつくらせました。石川島播磨重工の濫觴です。この造船所は渋沢栄一や鍋島藩、宇和島伊達藩の出資を受けた民営造船所として、数々の先駆けとなる船舶や飛行機、橋や重機をつくりました。
 隅田川を往来する船の通行のため、上流から流入する土砂を浚渫して、その廃土によって石川島の南側に月島が埋め立てられ始めたのが1887年からのこと。この年に懲役場は巣鴨に移って、巣鴨拘置所になっています。今のサンシャインシティですね。その後、石川島は、ほとんどの部分が石川島播磨重工の工場に占められるようになりました。
 新たな埋め立て地の呼び名の月島という地名は1891年の東京都議会で決定されたものです。現在の晴海までの埋め立てが完成したのは1931年のこと。
 戦争前に、石川島播磨重工は造船部門を隣の豊洲に移したので、月島には鉄構部門が残りました。戦後この会社は傾きましたが、行革の土光さんが建て直し、さらに月日を経て、都市化の波により1979年この工場は閉鎖され、三井不動産と公団公社の手で再開発されてリバーシティー21になったわけです。

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これはあくまでも個人的な備忘のための旅行記であり、ここに書かれている情報を利用したためにどのような不都合があったとしても、当方は一切関知しませんので悪しからず。