戦跡コレヒドール島 (5)

尊い死を踏みにじる非道の蛮行。この地で日本社会の欠陥を知るとは。


 大元帥陛下を押し立てて進んでいく社会システムをつくったのは一体誰なのか。
 そのような怒りを覚えるわけですが、さて実は、ここにはさらに大きな怒りを呼び起こす問題がありました。
 この日本人のツアー参加者の中で、1人で参加していたのは私だけでした。
 あとの人たちは、みんなフィリピーナのお姉ちゃんも連れてきている五十がらみの男たちばかりだったのです。私は思いました。私も含めてではありますが、彼らが生をうけることができたのは、直接間接に、ここで死んだ6000人の日本人たちがいたからではないのでしょうか。先考の眠る場所にやって来るのに、フィリピーナを連れてくる神経というのが私にはどうしても理解できませんでした。
 花のひとつでも手向けるのが筋なのではないでしょうか。道徳以前の、人倫の問題です。いや別に、何も考えずにフィリピンに来てもいい。フィリピーナを連れてどこかに遊びに行ってもいい。それだったらどこかのリゾート地に行ってほしい。「コレヒドール島にだけは来るな」と私は言いたい。


フィリピーナに罪はない(島内のホテルにて昼食)フィリピーナに罪はない(島内のホテルにて昼食)

 彼らが小学校教育を受けた当時というのは、日教組が最も華やかなりしころだったかもしれません。だから、マッカーサーについてもこの島についても何も知らないのかもしれない(本来は常識のレベルだと思いますが)。
 「地球の歩き方」を見ても、この島が観光開発されているということは書いてありますが。マッカーサーの「マ」の字も出てこないわけです。つまりこの島に対しては、非常に不十分な説明しかなされていないということができると思います。

 もうひとつは、アメリカ人が同じ船に乗って来ているということがあります。彼らはだいたい夫婦で来ているわけです。夫婦で来て、自分たちの自由を守るための戦争の経緯を目の当たりにし、そして自分たちが依って立っている理念の正しさを再認識するわけです。モニュメントというのはそのためにあるわけですから。
 ところが一方で日本人の方はというと、いい年をした分別盛りのおっさんが、フィリピーナを連れてビールを飲みながらバスに乗って回っているわけです。これでは日本語ガイドの爺さんがまともな話を諦めるのも当然でしょう。彼だってボブと同じ熱い心を持っているはずなのに。そしてそのフィリピーナというのは、「こいつら金蔓だ」と思っているから、おじさん達の相手を嫌や嫌やながらやっているという構図です。こういう態度で同胞の死を見ていられる日本人の姿を見ると、アメリカ人たちは、「こいつらだったらパターン半島で5000人殺すようなことも平気でできるだろうな」と思うに違いないし、「少なくともわれわれの社会はこいつらの社会よりも優れているだろう」と思う方が自然でしょう。

 人間、死生観が定まっていなければ困ると思うんです。
 私の死生観は、朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。あのおやじたちは、僕の理解の外にある人たちでした。盛り場でたむろしているガキがなにか言っても、「まあ、それはガキの言うことだから仕方ないか」と諦めもつくのですが、いいおやじがフィリピーナを連れてこの島にやって来るというのは、教会に情婦を連れて行っているようなもんですよ。世の中、やって良いことと悪いことがあるでしょう。「おまえら人間じゃねえ」と思わずにはいられなかった。テレビなら桃太郎侍が出てくる場面ですよ。ちょっとひどいでしょう、これは。

 僕はその足でフィリピンの日本大使館に遊びに行ったのですが、「大使館の方で何とか禁止してほしい」と言ったほどです。でもそのときに思ったのは、このツアーをやっているのはマニラの船会社なのですが、日本のおやじどもがフィリピーナを連れているということは、僕は1人分のツアー参加費しか払ってないわけですが、あいつらは2人分払っているという事実です。
 つまりこのツアーが成り立っているのは、フィリピーナを連れて来るエロおやじがいるからだということもありうるわけです。この矛盾を一体どう考えればいいのか、頭が痛くなってしまいました。

 それにしても、ここまで人倫が破壊されていたら、一体どうすればいいのか。著名評論家の先生にこの話をしたら、「いや、アジアはそういうところばかりだよ」と軽く言われてしまいました。アーリントン墓地に行って、あの厳粛さに打たれない人というのは、どうかしてると思うんです。アーリントン墓地に行くと無数の十字架が並んでていて、「いま自分たちが生きていられるのは、ここに眠る人たちのおかげなんだ」ということを再確認することができるわけです。
 アメリカでは、朝鮮戦争の時の北朝鮮の戦死者の遺体の引き取りが問題になっているように、どんなに僻地で戦死した遺体でも引き取ろうとしますよね。「国のために死んだ人間の死は絶対に無駄にはしない」という方針が徹底していて、だから死ぬまで戦うことができるわけですが、これによってアメリカの兵士たちは自分の死に意味を与えることができるわけです。それによって十全に力を発揮することができるわけです。生物学的にも、「アポトーシス=自死」には十分な意味があります。ならば人間一個体の死を意味づけられないなんて、とても文明社会とは言えない。

 ところがれわれの社会の方は、このような戦争という大事を客観的に評価し、社会的に意味づける機能を失っている、もっと言うなら個々人の行為を社会化する機能を完全に失っているということなのでしょう。この欠落は、小さくない禍根の胚胎だと思うし、私はそれを大いに危惧するものなのです。

遺族がこの島で死んだ肉親の名を刻ませた銘板の脇には、小さな花が寄り添うように咲いていた。

遺族がこの島で死んだ肉親の名を刻ませた銘板の脇には、小さな花が寄り添うように咲いていた。


(この項終わり)


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これはあくまでも個人的な備忘のための旅行記であり、ここに書かれている情報を利用したためにどのような不都合があったとしても、当方は一切関知しませんので悪しからず。