戦跡コレヒドール島 (1)

日米両軍が双方で1万人以上の命を失った激戦地を訪ねてみてわかったこと。


 フィリピンのコレヒドール島に行ってきました。

 マニラ湾の真ん中にぽつんと浮かぶ長径6.4キロ、最大幅800メートルほどの小さな島なんです。昔はずっと、スペインの灯台と徴税所があった(コレヒドールはcorrectorの意)のですが、1900年代の初めからアメリカが要塞化してきました。
 島の各所に57門の大砲が据え付けてあり、太平洋戦争が始まったときにはここにマッカーサーを指揮官とする1万5000人の守備隊が陣取っていたわけです。1万人がアメリカ人で、5000人はフィリピン人の軍属でした。
 ここには長さが350メートルもある世界一巨大な兵隊宿舎(マイルロング・バラックス=下の写真)や、当時フィリピン一立派な映画館だったという下士官用の巨大な映画館なども備えられ、ゴルフ場、テニスコートなども完備された見事な要塞になっていました。大手町ビルが出来たときに東洋一の大ビルヂングとうたいましたが、大手町ビルの長さはせいぜい200メートルぐらいなものです。それを考えると、アメリカがどれだけこの小さな島に肩入れしていたかがわかるというものです。

マイルロング・バラックス
 コレヒドール島はマニラ防衛の要であったばかりでなく、フィリピン全土を守る、アメリカの太平洋西部における覇権を可能ならしめた楔だったわけです。

 1942年正月明けてすぐのことですが、日本軍はコレヒドール島の北側に位置するパターン半島に100門の大砲を据え付けて、そこから7000トンの砲弾をこの小さな島に雨あられと打ち込んだわけです。島は一面のはげ山になったそうです。

 3月17日になってたまらなくなったマッカーサーは、真夜中に小型の船で逃げ出して(ルーズベルトによる撤退命令に従ったことになっています)、オーストラリアにたどり着き、逃げた先でI shall returnと言ったわけです。世の中でこんなに逃げて威張った人もいないと思います。
 I Shall Returnの像。背後がパターン半島。 I Shall Returnの像。背後がパターン半島。 そして5月6日、アメリカ軍は島の中央に掘られたトンネル要塞「マリンタトンネル」から出てきて降参しました。日本軍はフィリピンの軍属はすぐに解放したのですが、残りの1万人の捕虜を移動させるため、150キロの距離を1週間飲まず食わずで歩かせて、そのうちの5000人を殺してしまったわけです。これが有名な「パターン半島死の行進」です。

 戦況が逆転して反撃の作戦を練っていたアメリカは、台湾へまっすぐ向かうか、それとも島伝いにガダルカナルから攻め寄せて、フィリピンを取るかという2つの選択肢があったわけですが、アメリカは後者を選んでフィリピンを奪還しに行ったわけです。で、再びコレヒドール島が戦場になりました。
 この島には6000人の日本軍が立て籠もっていました。マッカーサーは面子にかけてこの島を落とさなければならなかった。そこで彼が立てた作戦は、前代未聞の奇策でした。まず艦砲射撃で8000トンの砲弾をこの島に打ち込みました。火点を制圧した後に、2000人ものパラシュート部隊を、島の中央部に降下させたわけです。高さ100メートルぐらいのところにある猫の額のようなところに2000人を降下させるという作戦は前代未聞の作戦でした。無事に着地に成功した人間もいれば、途中で命を失った兵士もかなりいたようです。銃撃戦を経て、アメリカ軍は島の中央部を占領し1945年2月16日に上陸開始、3月2日に日本軍はマリンタトンネルを爆破して玉砕し、マッカーサーはコレヒドール島奪回に成功しました。


フィリピンの囚人を使って掘られた悲劇の舞台フィリピンの囚人を使って掘られた悲劇の舞台 このとき6000人いた日本兵の多くはマリンタトンネル周辺で集団自決し、助かったのは26人。そのうち6人が看護婦の女性だったそうです。なんとこの小さな島では、阪神大震災と同規模で日本人の命が失われているわけです。アメリカから島を奪った時に5000人が犠牲となり、取り戻された時に6000人の命が失われているわけです。銘記すべき凄まじい激戦地なのです。


b.pnga.png

これはあくまでも個人的な備忘のための旅行記であり、ここに書かれている情報を利用したためにどのような不都合があったとしても、当方は一切関知しませんので悪しからず。