岡本呻也著 文藝春秋刊 

ビットバレーの変質

 11月と12月のビットスタイルは会場を代官山に移した。会場の熱気にも異様なものがあった。11月にスピーチした楽天社長の三木谷浩史は、椅子か箱の上に載って喋っていたのだが、スピーチが終わった瞬間にこの有名人と名刺を交換したい参加者と、この機を逃さずインタビューを取ろうとする取材のカメラ、マイクが一時に押しかけ、揉みくちゃにされる有様だった。
 12月2日には東京都知事石原慎太郎が、都の産業政策会議席上で3度にわたって「ビットバレーに行ってみたい」と発言。「お忍び訪問」ということで、裏門からやってきて報道関係者のスペースでパイプをくゆらせつつ、目を細めて若者たちの名刺交換騒ぎを見物した。
 「昔のダンスホールとどう違うんだ。誰が来ているのかわからないなあ」
 と、ひとりごちるように記者に語った石原は青春時代、セコム会長の飯田亮などと遊び回り、その経験を背景に描いた『太陽の季節』で昭和30年に芥川賞を受賞している。太陽族という言葉が既成概念を打ち壊す行動傾向の若者たちを意味したように、石原自身がある時代をつくった主役だった。その記憶と重ね合わせたのかもしれない。帰りの車まで同道したビットバレー事務局の宮城に石原は、
 「こういうことをやっていると,周りからいろいろ批判されるだろう。風当たりも強くなるだろうし、こんなのはファッションに過ぎんと言われるかもしれない。でも気にするな。ファッションの中から一握りのジーニアス(天才)が生まれるんだ。この中から本物が出てくるんだ」
 と言い残して車中の人となった。

 ビットバレーは停頓する日本経済の救世主であるかのようにまで持ち上げられるようになってしまった。しかし2000年の年明けを挟んで、宮城、松山らビットバレーの運営者たちの間では今後のビットバレーをどうするかについての激論が交わされていた。
 事務局には、参加者1000名を超えたビットスタイルに対して「ああいうのはやめてくれ」という投書が相次いでいた。
 主に初期からビットな飲み会に参加していた古株からである。人が多すぎて誰が来ているかわからない。あまりに人が多いので、メーリングリスト上で目を付けた人に会うときには、直接電子メールを送って携帯電話の番号を伝え会い、自分の背格好や服装を伝えた上で、会場の中で携帯電話をかけてやっとお目当ての人物に会うことができるという有様である。
 有名人士を求めて血走った目をしながら名刺を振りかざしているおかしな参加者もいる。単なるイベント感覚で参加する者も増えた。今や「3高」男性よりネットベンチャー経営者の方が格好いい。出会いを求めてパーティー感覚でやってくる若い女性も少なくなかった。
 参加者の意識レベルの乖離が拡がってきたのである。ベンチャー経営者は独立心が旺盛なので、「こんな連中には交わりたくない」と考え、ビットバレーから距離をとり始めるようになった。当初はオープンな組織を標榜して「千客万来」と言っても、ネットに対する高い意識を持った人しか来なかった。だからある興味関心を共有する強い求心性を持ったコミュニティが成立したわけだ。ところがネットベンチャーに対する社会的関心が高まるにつれて、必ずしもビットバレーというコミュニティの本来の目的に関心を持たないVCや金融機関、大企業からの参加者が増えてくる。彼らの関心は自分たちの利得である。それでもビットバレーの文化であるフラットなコミュニティの中での相互支援というルールを外さずにやってくれれば問題は少なかったのであろうが、大企業のサラリーマンはメーリングリストに一本投稿するについても事務局宛に「こんな意見を投稿しようと思うのですが良いでしょうか」と了解を求めてくる始末。ビットスタイルでも、メーリングリストでも、その中に入って市民権を得れば、どんな情報でも自由に発信して良いという単純なルールが理解できないのだ。
 こんなメールを送られても、1日に何百通ものメールを受け取るBVA事務局が対応できるはずがない。種を明かせば、事務局といってもETICが世話になっている会計士の事務所に間借りしているだけで、給料なし、コストなし、机もなければ常駐しているわけでもない。必要な時だけパソコンを持って集まるわけで、まったくのボランティア、実体のない組織なのだ。
 われわれは他者との関係づくりがアングロ・サクソンに比べると下手な文化なので、日本型組織は相手との関係を安定させるためには支配=従属関係という図式に当て嵌めることになっている。サル山の社会構造に近い。大企業の論理では、「ビットバレーの支配者は事務局だから、自分たちにメリットのある情報を発信するには事務局に筋を通しておけばよいだろう」。こういう理屈である。その結果として大企業では、人間関係すら会社同士の付き合いと考えている。だが、ビットバレーのようなコミュニティで得られるのはあくまで「人と人との関係」なのだ。それが将来ビジネスに発展する可能性はあるにせよ、その場ではただの知り合いである。一個人として相手から何を引き出すことができるかは、本人の力量に委ねられている。
 こうした「一人一人が独立した個人の資格で参加する上下関係のない場」という概念は、大企業の文化とは馴染まぬものだ。ところがその馴染まぬ文化を持った人々が、上司の命令でビットバレーに殺到してきたのである。「会員登録すればボクもビットバレーの一員」と考えるアイデンティティー依存型のぶら下がり会員も含めて(こうした生産性が乏しい人種は学校にも企業にも少なくない)、「ビットバレー」という名前の周囲に人が群れ、ひしめき合った。ビットバレー宣言以来7カ月目のことである。
 「これはヒートアップしすぎだ。名前だけ先行して、大事なことに手がつけらず終わってしまうかもしれない。一度クールダウンさせよう」
 2000年の年明け早々、事務局は次回をもって、ビットスタイルを中止する決断を下さざるをえなかった。松山の「中止」という表現を、宮城は「休止」と修正した。

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