岡本呻也著 文藝春秋刊 

サイト制作ビジネス

 95年以降には、徐々に普及してきたインターネットが学生たちの新しい武器になった。これまでになかった「ネットを利用した起業」という選択肢を得たのである。
彼らは、まず理系学部の研究室でインターネットに触れる機会を持つ。
 ところがうってつけの一団があった。慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)。ここの学生はパソコンに精通していた。総合政策学部と環境情報学部を有する、湘南の緑豊かなキャンパスをつくった慶応の教授陣は、入学してきた学生にまず2つの言語を学べと教育した。自然言語である外国語と、人工言語であるコンピューター言語だ。身につけた2つのコミュニケーション能力を使って何をやるかは自分たちで考えろ、という教育方針である。理屈は通っているのだが、第1期の卒業生を新卒社員として94年に迎えた企業は、英語とコンピューターには詳しいものの、奔放に行動してどうも社会的適応性に欠ける彼らを持て余し、「SFCの学生は使えない。せいぜいシステム・プログラマーにでもして使うしかない」という評判がたってしまう。大企業に入社後すぐ退社する卒業生も続出した。SFCの試みは時代の遥か先を行っていたのである。SFC卒業生にとっても、企業にとっても不幸なことであった。
 SFCの高邁な理想の旗を振っていたのは、村井純である。彼は日本のインターネットをつくった人物といっても過言ではない。最初のネットは、郵便袋に電子メールを詰め込んで、コンピューターからコンピューターに順送りに送るようなものだった。村井が唱導して大学や研究機関のコンピューターを繋げるJUNETが発足し、88年にアメリカなどとそのネットワークを繋ぐWIDEプロジェクトができたのだが、資金難に陥っていたこのプロジェクトを資金サポートして、アメリカとの間にさらに太い回線を引かせたのがリクルートだった。さらにもう1人、日本のインターネットの恩人を登場させるとなると、92年に初の商用プロバイダーIIJを設立した鈴木幸一であろう。IIJに続いてプロバイダー事業に各社が参入して利用者が一挙に増加した。
 やがてモザイクというブラウザーソフトの登場によって文字だけでなく写真も見ることができるようになり、リンクで情報を繋いでいく仕組みができて、94年にインターネットは商用開放されたのである。

 話がずれたが、この村井純の薫育を受けた学生たちの中にも、IMDなどネットベンチャーとして起業した学生が多い。村井は「ベンチャーを起こして40歳までに自分で4億円稼げ」と学生たちに発破をかけている。96年頃、就職した先輩たちの不遇を伝え聞いていたこのSFCの現役学生たちは、三菱総研などのシンクタンクにアルバイトに出ていて、バイト先や、その紹介で徐々にホームページ作成を請け負うようになっていった。なぜなら彼らは世界でも一番早くからインターネットに触れていた人間たちだったからだ。一気に勉強して他に負けないスキルがある。暇だから一日中ネットを見ていて、忙しい社会人より確実にネットに詳しかった。
 「えっ、君ホームページつくれるの? うちの会社のページつくってくれないかなあ」
 「いいですよ。1ページ10万円で10ページだと100万円です」
 といった具合である。

 企業の担当者もネットのことがさっぱりわからない。「パソコンは何でもできる魔法の箱だ」と思っているので、「企画も君たちで考えてよ」と学生に丸投げする。「面白くて儲かるバイト」には参入者が相次いだ。SFCの学生の間では、ネット企業をつくるのが流行していたのである。各人に得意不得意があるので、自分の不得意な仕事は知り合いに融通するなどして、仕事を介して同業者のネットワークが拡がって行ったようだ。
 ビットバレーのベンチャー経営者は楽天の三木谷浩史のような35、6歳を中心にした層と、26、7歳を中心とした層に分かれているが、言ってみれば前者がバブル期以前に大学を卒業したヤンエグ世代、後者がインターネットの登場にチャンスを得たサイト制作出身世代ということになる。

 95、6年頃、六本木のベルファーレには、2000年3月にナスダックとマザーズの同時上場を果たすクレイフィッシュ社長の松島庸や、インディゴの孫泰蔵、楽天で三木谷社長を支える慶応大学藤沢キャンパスの面々、松山大河などが出入りしていた。同時期にVIPルームでは、光通信の重田の株式公開を板倉やグッドウィル会長の折口がシャンパンを開けて祝っていたはずである。
 こう考えると、ディスコというのはつくづくベンチャー経営者養成所のような気がしてくる。ディスコで面白く遊べる折衝能力のある人間がベンチャーに向いているということか。あるいは「ボクちゃんディスコなんて行きません」と母上にネクタイを締めてもらってから銀行勤めに出掛けるような石部金吉にはベンチャーは向かないということか。

 96、97年に、それ以前から企業のサイト制作を請け負っていたベンチャー群が、相次いで法人登記を行っている。
 96年10月、クレイフィッシュ設立。
 96年2月、ヤフー・ジャパンの立ち上げに合わせてインディゴ設立。
 96年4月、オン・ザ・エッヂ設立。
 96年12月、電脳隊設立。
 97年7月、イエルネット設立。
 97年12月、95年に興銀を辞めていた三木谷が現在の楽天を設立。

 初期の頃は大手コンピューターメーカーやソフト会社からの注文が多かったようだ。オン・ザ・エッヂの堀江貴文はオラクルやアップルコンピューターからのサイト制作の注文を受けていた。
 電脳隊は日本相撲協会のサイトを、ガーラは全日本プロレスのサイトを請け負ったという。パソコンおたくには格闘技ファンが多いのでこの分野や、アイドルのサイトなども流行したようだ。また、ちょっと感度のいいブランドもの輸入業者のオーナーなどもホームページに興味を示し、学生に注文を出していた。
 しかしいいアルバイトだったサイト制作のページ単価は、10万円から1万円程度に落ち込んだ。単にサイトを見映えよくデザインして、それをHTML文書に移すだけでは、商売にならなくなってしまったのである。単価の下落にもかかわらずページ単価10万円時代のどんぶり勘定、放漫経営をやっていた学生たちはあっという間に消えてしまった。
 オン・ザ・エッヂの堀江の場合は、その不遜な態度と釣り合いが取れた優れた経営感覚を持っていた。ウェブサイト制作会社を運営するためには、最低限必要な単位がある。社長である堀江は、営業して仕事を取ることと、サイト全体を企画すること、HTML文書を書くことを一人でできる。もう一人はプログラマー兼デザイナー。そしてサーバー管理者の3人がいればよい。このチームだけでサイト制作の仕事が完結する最小ユニットを基本にして、ここに徐々に肉付けして組織を作った。社長自らが、各分野の仕事を最低でも"中の下"くらいのレベルまではやることができる。だからつまらない仕事をやっている社員を「このくらいなら俺でもできる」と一喝することができる。そうやってクリエイター軍団を運営し、情報を収集しつつ技術力を磨き続けて、ウェブサイト制作事業における強者の地位を確立したのである。同社は国会図書館や有名芸能人、さまざまな大企業のサイト構築や運営を手掛けている。
 「当たり前のことを当たり前にやっているだけですよ。周りには冒険しているように見えるかもしれませんが、僕はリスクなんか取ってないんです。この商売は基本的に赤字になる体質ではありませんよ」
 堀江は抑揚のない声でさも当然そうに語る。
 いつも目を半分つむったような眠そうな顔をしてくぐもった話し方をする。しかしその長髪の中には東大文学部で宗教学を専攻した燃犀なる頭脳がしまい込まれている。結局大学は卒業しなかったが、その知恵は経営センスに昇華していた。サイト制作の世界で凡百の同業者から抜きんでて株式公開しようと思ったら、この程度の才覚がなければ難しい。

 とにかくサイト制作請け負い業者から脱皮しなければネットベンチャーとして脚光を浴びることはできない。そこで学生起業家たちは広告業に進出したり、コミュニティサイトをつくったり、利用者の消費を仲介したり、直接物販を行ったり、あるいは大企業のネットビジネスをサポートしたりと、自分の得意な分野を足掛かりにして、考えられる限りのあらゆる方向にビジネスを進化させていったのである。
 電脳隊のケース。青学2人、SFC2人、東大2人の陣容で96年12月に法人登記した彼らだが、就職活動の時期がやってきて、適当に活動して内定をもらいつつ、この先どうするべきか議論になった。
 「選択肢は幾つかある。ウェブサイトの製作受託はもう先が見えてしまった。競争が激しくなって、単価も下がっていく」
 「じゃあ、どうすればいい? どう差別化したら生き残ることができるんだ」
 議論に行き詰まってしまった。そこで97年夏、当時社長だった田中祐介は、シリコンバレーのベンチャー企業の仕組みと資本政策、今後のビジネスマーケティング調査のために知人を訪ねて訪米する。この知人というのが、電脳隊の面々が夜中に原宿のじゃんがらラーメンでラーメンを食べていたときに「どうやったらこのラーメンの匂いをインターネットで送ることができるか」という、通常人から見るとヨタ話に思えなくもない問題について話し合っていた。議論が白熱してきた時、「キミたち面白そうな話をしてるじゃないか」と横からしゃしゃり出てきた変な外人、彼は東大の大学院に留学中で、彼の「MIT時代の友人がたくさんシリコンバレーで成功しているから紹介して上げよう」という誘いを受けて訪米したわけである。西海岸で多くのベンチャーを訪れてトップと話したが、その中に、携帯電話でインターネットを利用するビジネスを行っているフォン・ドットコムという会社があった。田中はCEOのアラン・ロシュマンにも会った。
 田中の帰国後、「さてどうしようか」という相談になったときに、経営の教科者がわりに使っているグロービス著の『MBAマネジメントブック』(堀義人の学校の講師陣がマネジメントスクールの授業内容をまとめた本。シリーズ化されていて人気が高い)を引き出してきて、ポートフォリオを描いてみる。
 「サイト構築はここ、ウェブTVはここ、携帯電話はここにあるから、じゃあこの中では一番有望な携帯のインターネット・コンテンツをやれば、サラリーマンにならずにやっていくことができるんじゃないの」
 という判断で一致して、97年末にはそれまでの「ネットのことならなんでもやります」という営業方針を転換。従来のウェブサイト制作の仕事をすべて断ってしまう。
 客には「そんなことを言って、あんな小さな携帯のディスプレイでインターネットができるわけないだろ。せっかくの仕事を断って」と言われたが、「いえ、1年後を見ていてください」と切り返したそうだ。電脳隊は情報ルートから、NTTドコモがインターネットのブラウザーのついた携帯端末を開発中であることを聞いていた。しかし彼らは、仕様が既に公開されているフォン・ドットコムが提唱したWAP方式を選択する。
 それにしても情報の収集と論理的分析の結果描いた戦略に基づいて、それまであった収入源を全て断ってしまうとというのはかなり大胆なことだ。それだけの洞察力と決断力があれば助かりそうな大企業は幾らでもあるのだろうが、身軽さと自負に欠けているせいか、これほどの大転換を見せる大企業経営者は稀である。
 後の話であるが電脳隊は、携帯電話向けの個人情報管理システムを開発しているPIMと2000年6月に合併。そのPIMは同年秋に、携帯電話向けのサービス拡充を望むヤフーと合併した。PIMの株式18株に対しヤフーの株式1株が割り当てられた。技術環境の進歩を受けて、ネットベンチャーの会社の形態も目まぐるしく変化しつつある。

 95年のインターネット元年以来、日本のインターネット人口は累増的に拡大し、この時期までに1000万人を越えていた。そのコンテンツを供給する学生企業群は、たいてい代々木から渋谷、恵比寿、六本木あたりに偏在していた。まともなオフィスビルには相手をしてもらえないので、マンションオフィスである。彼らは24時間働くので、個別空調のマンションはかえって好都合なのだ。オフィス立地のないところとなると、自然とそのような分布になるのだ。その中心に位置するターミナルが、渋谷であった。
 そしてこの時点で、彼らに対してインターンを供給するNPOまで存在していた。パソコン通信やメールマガジンを通して、そうした企業家や企業家予備軍が緩いつながりをもって連合しているという状況であった。よく「ロシア革命は破れかけた扉を最後の一蹴りで吹き飛ばしただけだ」という言い方がされるが、ネット革命についてもその機は十分に熟していたのである。

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