岡本呻也著 文藝春秋刊 

3カ月でこの世にないものを

 ウインドウズ95が発売され猫も杓子もパソコンへと靡く年末の慌しい中、板倉はハイバーシステムプロジェクトに向けた大ミーティングを開いた。やらなければならないことは山ほどある。
 システム開発
 特許や著作権などの申請と保格
 データベースのマネジメントと保有
 インターネットプロバイダーの確保
 広告獲得
 「これは俺の手に余るのでは」という思いは板倉の脳裏を一瞬かすめただけでどこかに飛んでいってしまった。
 「起業は自分の唯一の表現方法。自分の溢れ出るエネルギーも、余った時間も吸い取ってくれる。自分は一人で放っておかれるととんでもないことをしでかしてしまう人間なので、起業は自分のエネルギーにやるエサとして一番いいんです。量がたくさんあるということは、エサがたくさんあるということ。"やらなきゃあ"と思うんじゃなくて、エネルギーが勝手に出てきますから。2わあ、こんなにやることが一杯ある"というのは、僕にとって凄く楽しいことなんですよ」
 板倉は仕事に取りかかった。ここから倒産までのハイパーネットは、まさにジェットコスターに乗ったようなものである。まずカネだ。住友の國重は、95年11月、板倉に2億5000万円を融資した。これを皮切りにたちまちのうちに20億もの銀行融資が集まった。ベンチャー企業に担保などない。全て板倉の個人保証を入れているが、事業の失敗を疑わない板倉は平気で判をつきまくった。堀はしきりに「板倉さん、銀行融資は危ないって。エクイティ・ファイナンス(増資)に替えたほうがいいよ」と諫めたが、板倉は聞かなかった。聞かないはずで、話は先のことになるが96年の4月頃から板倉はアメリカのナスダックへの上場を狙い始める。成功すれば日本のベンチャー企業初のことだ。上場するためには公開直前の資本移動は禁じられているので、増資をすることができない。それどころか、バランスシートを格好よく見せるために手元流動性まで住友銀行から3億円ほど預金担保として借りていたのだから、財務戦略には大きな問題があったと言わざるを得ない。
 次にシステム開発。市場調査の反応は「なるべく早くサービス開始が望ましい」とのことだった。
 外資系の日本タンデムコンピューターズが「4月までにやりましょう」ということで開発を引き受けてくれた。話が決まった後で板倉は、『あれは一体幾らするんだ?』と考えたが、5億円とのことであった。しかしタンデムと繋がっていた日本リースがシステムを一括して買い上げ、リースしてくれることになったので、「じゃあ、悩まなくていいや」と話を進めてしまった。実はタンデムにとってはこの案件、同社の最上級並列機の販売を含めた上半期最大の商談成立であり、「一介のベンチャー企業がこのような注文を出したことは何事か」と業界の注目を引いたほどの、平たくいうと無駄遣いだったのである。
 プロバイダーはアスキーが6カ月間は独占してやってくれることになり、開発から切り離した。ハイパーネットはアスキーに対してユーザーの接続時間1分あたり8・33円を支払う契約になっていた。
 人材も重要だ。夏野は連休中にアメリカに市場調査に行ったり、東京ガスの勤務時間外に夜な夜なやってきては事業計画や戦略立案を手弁当で手伝ってくれていた。板倉は、最初は東京ガスを辞める気などなかった夏野を口説き落として、6月に副社長として迎え入れた。三和銀行の高山も退職してハイパーネットの監査役に就任する。その他にも英語がわかるMBAクラスの人間を確保。社員は40名に膨らんだ。

 ハイパーシステムの試験運用は4月から、本格的稼動は6月からと決まった。たった3カ月でまだ世の中にないシステムをゼロからつくるのである。
 だが板倉には人を巻き込む神がかり的な力があった。彼が「ハイパーはマイクロソフトを超える。世界を制覇するぞ」と言うと、社員はそれを信じた。高学歴の人間が何もかも打ち捨てて不眠不休、家にも帰らずに働く様を見て、業界雀たちは「あそこはオウム真理教のようだ」と囁き合った。そのハイパー教の教義は「人生はしょせん暇つぶし。だったらできるだけ楽しく、失敗してもいいから大きくやろう」というものであった。
 限界までスピードを追求する主義の板倉からは「あれやって、これやって、すぐやって」と矢継ぎ早に指示が飛んでくる。「朝令暮改できるのがベンチャーだ」と威張りながらころころ変わる板倉の指示を受けて、社員たちは右へ左へと走り回り、不可能とさえ思えることにアタックしていった。やっている仕事はハイテクなのだが、本人たちは「自分がやることは必ずできる」という信念だけで行動していたのである。「板倉に言われたことはやる」、それ以外の選択肢はなかったし、「できない」という疑念もまったく浮かんで来なかった。「やらなければ感情の起伏が激しい板倉に殺される」とまで思い詰めていた社員もいたほどだ。
 それでも本当に4月15日までにシステムが完成するとは板倉自身も信じてはいなかった。社員の多くも無理だとあきらめていただろう。しかし後には退けなかった。2月29日にはヴェルファーレを貸し切って派手な記者会見を開き、大々的に宣伝していたし、國重の紹介で「日経ビジネス」編集部に赴き、3月11日号の「挑む」と題するコーナーでハイパーシステムを取り上げてもらっていた。
 この際、板倉の情熱的なプレゼンテーションを冷静に聞いた記者が「このビジネスは面白いけど、もし万が一失敗したらどうするんですか」と質問したが、板倉は「そしたら御誌の『財軍の将、兵を語る』に登場して、その後本でも書いて印税で回収しますよ」と応えている。実際に板倉は「敗軍の将」のコーナーに登場したが、おそらく「挑む」から「敗軍」までの最短記録ではないだろうか。著書『社長失格』は98年の11月に日経BP社から出版されている。板倉は「起業が唯一の自己表現手段」と言うがそんなことはない。この本にもその才能を遺憾なく発揮している。この章の会話文で2重鍵括弧の部分は、この本からの引用である。
 「明日からハイパーシステム試験運用スタート」と既にアスキーが広告を打ってしまった4月14日の午後8時、開発責任者が 『できました、社長』とパソコンを持ってやってきた。
 プロバイダーに接続するとデータベースセンターに繋がって広告が送られてくる。広告のボタンを押すと広告主のホームページの画面が現われた。
 ちゃんと動くじゃないか――自分で考えたシステムを前にして板倉は信じられない気持だった。
 『やったね』
 『ええ。やりました』
 この瞬間、ハイパーネットはカリスマになった。

 板倉は車を赤のフェラーリF355スパイダーに乗り換え、颯爽と6本木のナイトクラブに乗りつけた。白金の家賃50万円の一軒家に住み、25歳の6本木の女と同棲を始めた。
 無料プロバイダーのサービスを希望する会員は10日で1万人、20日で2万人集まった。順調なすべり出しである。ソロモン・ブラザーズ証券がアメリカのナスダックへの上場を持ちかけてきた。野村證券も協力を申し出た。日米最高の証券会社がこの有望なネットベンチャーをアメリカ市場に送り出してくれるというのだ。しかもアメリカ2位のパソコン通信会社であるコンピューサーブとの提携契約ができるという連絡が夏野から入ってきた。アメリカの方が日本より市場規模が大きい。板倉はアメリカでの成功を信じてハイパーネットUSAの投資強化に乗り出した(ちなみにコンピューサーブの代理店として日商岩井と富士通が87年から始めたがニフティーサーブである。コンピューサーブの親会社は97年にコンピューサーブをワールドコムに売却。ワールドコムは個人向けオンラインサービス部門をAOLに売却して、AOLの覇権が確立した)。

b.pnga.png

サイト運営者は桜内ふみき氏をサポートしていますサイト運営者は桜内ふみき氏をサポートしています




人間力★ラボ
人間力★ラボ




人間力営業
人間力営業



「人間力」101本