岡本呻也著 文藝春秋刊 

若き起業家たち

 この時期板倉はもう一つの出会いの機会を得る。彼が今も「あれは青春だった」と振り返るのは、青年社長たちの交流の場、YEO(ヤング・アントレプレナーズ・オーガニゼーション)である。この会は87年に世界の企業家のネットワークとして誕生したものだ。青年会議所とよく似ているが、自分がベンチャーとして会社を興した者にしか参加資格がないというところが違っている。
 若手起業家たちを勧誘し、初代会長となったのはグロービス社長の堀義人。丸の内青年倶楽部の創設者である。堀は住友商事からハーバード大学のビジネススクールに留学し91年に帰国したのだが、ハーバードで本場の経営学に触れて「これを知らなければビジネスはできない。組織力で戦っているアメリカ企業に日本人は竹槍で立ち向かっているようなものだ」と強烈なショックを受ける。しかもこれからは自動車や鉄鋼業などの大量生産、資本集約型産業からサービス業などの知識集約型産業が主流になるだろう。そこで競争力になるのは創造性であって、企業間戦争は今までとはまったく違う領域に入りつつあると実感した。
 「しかも日本の大企業はまだほとんどそれに気がついていない。これはまずいだろう。誰もこの知恵の移転をやっていないのなら、僕がやるしかない」
 元々起業家精神が旺盛であった堀は92年、友人たちから資本金を募って社会人向けビジネススクールを運営するグロービスを立ち上げる。ハーバードの教材を使って、ケーススタディと呼ばれる方式の授業を展開するこの学校は、留学したくても機会のない若手サラリーマンの支持を受け繁盛した。講師には堀の友人のMBA取得者が多数協力した。堀はそこで培ったノウハウを教材に落とし込んで企業研修の請け負いも始める。今では200社の研修を請け、年間4000人の社会人がグロービスで学んでいる。堀は競合他社がない、独自の地位を築くことに成功した。
 社交的な性格の堀は、通産省が後援するニュービジネス協議会などにも出入りしていたが、そこで知り合ったドミノピザ社長のアーネスト比嘉から「日本でもYEOを立ち上げないか」と誘われていた。実はYEOは50歳までの経営者8000人が参加する世界組織YPO(ヤング・プレジデント・オーガニゼーション)から派生した組織なのだが、比嘉はアジアにもYEOの拠点をつくりたいという要請をYPO経由でしばしば受けていたのである。
 「どうも香港で立ち上げようという若手経営者の動きがあるらしいよ」
 「うーん、アジアで最初にやるのは日本でないと困りますよねえ」
 堀は腰を上げ、同年輩の若手経営者たちに声をかけ始めた。
 そのなかでも堀が重視したのはソフマップの鈴木慶、光通信の重田康光の2人であった。当時光っていたこの2人が動けば、みんな集まってくるに違いないと堀は睨んでいた。その他、テレビキャスター出身で1000人を越す在日外国人のネットワークを持つユニカルインターナショナルの佐々木かをり(2代目代表)、当時ジュリアナ東京やヴェルファーレといった巨大ディスコを企画し、後にダイヤルキューネットワークにいた佐藤修と組んでグッドウィルをつくる折口雅博、イーディーコントライブの川合アユムといった面々である。
 当時、経済メディアを賑わせていた若手起業家の中で声をかけられなかったのは、プラザクリエイトの大島康弘ぐらいであろう。どうも大島は同世代には嫌われていたらしく、アスキーの西和彦の33歳を抜いて、31歳での史上最年少の株式公開社長の座を狙っていた大島は、公開1カ月前に光通信の重田に抜かれて地団駄を踏むことになる。YEOの仲間はヴュルファーレのVIPルームでシャンパンを開けて光通信の公開を祝い、「これからこのメンバーが公開する度にここでシャンパンを抜いて祝おう」と誓い合った。2000年にYEOの代表を務めているのはフルキャスト社長の平野岳史であるが、彼はQネットに番組を提供する代理店をやっていた。また現在は独立してファミリービズを経営している元Qネット社長の玉置真理もYEOのメンバーだ。

 95年10月15日、堀が声をかけて集めた30代起業家たちが20人ほど、六本木に程近い東京アメリカンクラブに集合した。堀は愛想よくメンバーを迎え、板倉は「あー、こいつ雑誌のモデルやってた奴だ」と思い出した。他に板倉が強烈な印象を持ったのは光通信の重田である。
「ああ、俺、こいつと同じ業界じゃなくて良かった。こいつとビジネスやったら勝てないだろうな」
 起業家というのは平たく言うと「俺がこの世で一番」と思っている人間のことである。自己主張も人並み以上に強いのだが、またある意味では友だちも少ない。サラリーマンになった同級生は居酒屋で会社のグチを話すが、起業家は「なんだ、そんなんなら辞めちゃえばいいじゃん」と簡単に言ってしまう。辞められないからグチるのであって、辞めてしまってはサラリーマンが成り立たない。起業家という人種はこうして孤独になっていくのである。そういう意味では、もしお互いを認め合える関係であれば、起業家が交流し意見を交換し合うことは精神的に大きな支えになることだ。実はYEOには数人の固定した仲間の間でお互いのビジネスや個人的な悩みを語り合うというプログラムもある。実にアメリカ的なメソッドだが、日本ではあまり機能していないようだ。そんなことをしなくても日本人は酒を飲めば打ち解ける。特に同年代であればなおさらだ。
 2次会は六本木のヴェルファーレに席を移した。
 「あんたは"今俺が一番だ"と思っているかもしれんが、10年後には俺かもしれんよ」
 と、会社規模の大小に関係なく腹わたを曝け出して語り合える青年起業家たちのネットワークができた。YEOは出資や提携の舞台ともなっている。各人が刺激し合って起業家精神をさらに高め合い、株式公開についての情報なども交換できるこの人脈は、現在も連綿と続き、日本では40人、アジア地域全体では400人の会員を擁するようになった。彼らはYEOを通してアジアにも人脈を拡げたのである。
 12月の第2回YEOの集まりの時、ヴェルファーレのVIPルームでは板倉、堀、重田、折口といった面々が卓を囲んでいたが、板倉の様子はいつもと違い、何か思い詰めた様子であったという。やがて板倉は一座の中で宣言をした。
 「今まで悩んでいたビジネスをやることにした。俺、今から人生賭けるよ」
 経営者が2度と元の地点に戻ることができないような大きなビジネスに乗り出す大きな一歩を踏み出すには覚悟が要る。ベンチャー精神が激しくぶつかり合うYEOの場の雰囲気が彼の背中を押したのだろうか。YEOのメンバーたちは口々に板倉を励ました。

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