岡本呻也著 文藝春秋刊 

ダイヤル・キュー・ネットワーク

 89年9月28日、玉置の20歳の誕生日に、法人としてのQネットはスタートした。資本金は1100万円。真田と彼の父親が出資した。事務所は五反田駅からかなり歩いた高速道路の脇にある、妙に生活感のある薄汚れたマンションの1LDKを借りた。社員4人のスタートならこれで十分だ。机はリクルートからのもらい机である。金がないので贅沢は言っていられない。
 Qネットセンターの稼動予定日は12月1日、しかも実は一番肝心なものが真田の頭から抜け落ちていた。それは利用者からの電話を受けて、蓄積してある番組を自動的に配信するサーバーの機械である。Qネットセンターとは、このパソコン・サーバーのことなのだ。真田は技術的な知識がまったくなかったので、「機械屋さんに頼めばなんとかなるだろう」くらいに簡単に考えていた。
 ところが当時はそんなものはまったくなかったのである。それでいて事業計画書を見せられたみんなが納得したというのも変な話だが、それだけ事業の新奇性と真田の強烈な説得力がモノを言ったということだろう。結局16回線が1台のコンピュータに入るサーバーを一からつくってもらってこれが4500万円。今なら20万円程度で簡単に手に入るものが、資本金をはるかに超えている。真田は実家を担保に入れてもらってリースを組んだ。もはや背水の陣である。
 再び真田は関西に下った。西山に会うためだ。
「そろそろお前の出番や。優秀な奴がいる。このままでは12月のサービス開始に間に合わん」
 なんと、リョーマの社長からさらっていこうというのである。図々しい話であるが、真田には自分に欠けている部分を補ってくれるもっとも信頼する友が必要だった。その意味では、真田は自分の欠点をよく知っていた。西山は、「あくまでリョーマが本業だが、手伝おう」と応諾する。
 五反田のQネットでは、新曲や新作映画の情報の送り手であるレコード会社、映画会社、出版社など、番組提供者とのタイアップ交渉や、サーバー設置、インフォコネクションとの提携交渉などで目の回るような忙しさだ。真田も玉置もすさまじい勢いで事務量をこなしている。真田の睡眠時間は1日1、2時間。毎日オフィスに泊り込む日々が続く。だが前進のエネルギーが尽きることはない。西山も最初は週に1日の東京出張という約束だったのが、2日になり3日になり、ついに比率が逆転して関西に帰ってこなくなってしまった。リョーマの社員たちは「しゃーないなー」と言いながら社長の不在を補った。

 12月1日、予定通り東京Qネットセンターがオープン。この日ばかりは全員で居酒屋に出かけて乾杯した。
 「きっとうまくいくよな」
 「いくに決まっとるやろ。アホいうな」
 卓を囲んだ社員たちの顔に希望の光が灯っていた。
 1月、真田はパーティーラインのライセンス契約のために渡米した。サンディエゴにあるジムの相方のトッド・レーサーの家を訪れたが、丘の上にある大豪邸に息を呑んだ。「これがアメリカの成功者の家なんだ」。この相方は真田と同年輩の24歳なのである。家の中に変な形のバスタブがある浴室があったので、「この部屋は何だ」と聞くと、「これは飼い犬のための浴室だ」という答えであった。しかしその犬の風呂は真田が今住まいとしている部屋よりもはるかに広いのであった。思わず我が身を振り返る。
 翌日、太平洋にクルーザーを乗り出して遊んだ。白波を蹴立てて快走する船の上で、ジムは真田と固く握手をしつつ「一緒に頑張って成功を手に入れよう」と明るく語りかけた。「俺もこんな成功を手中にできるやろうか」。真田は心地よい潮風に吹かれつつ、武者震いをせずにはいられなかった。
 3分間90円のパーティーラインは2月に稼動したが、コール数は予想を大きく上回って増え始めた。
 「すごいコール数の伸び方やなあ」
 「回線はいつも満杯や、もっと増設しよう」
 コンピューターからプリントアウトした集計をみんなで覗き込むのが全員の楽しみだった。
 この時はなんせ競合相手がいないのである。次章の主人公となる板倉雄一郎が起した国際ボイスリンクは、数少ない同業の1社であった。板倉はゲームソフト制作会社をやっていたが、84年に起きた世田谷電話局のケーブル火災の際にたまたま電話が混線しで複数の人が同時に話せたことがあった。これが意外に面白かった経験から、3人以上で会話できる「電話会議」のシステムを独自につくって参入していた。

 「よし、このビジネスはいけるぞ。人もカネもどんどん注ぎ込めえ。Qネットセンターを増やすんやあ」
 真田のアイデアは本物だった。ニーズはある。情報提供会社への営業活動、パーティーラインの会話の中身のチェック、システムの運用とコンテンツの中身の入れ替えと、いくらでも人がいる。リョーマから西山に続いて加藤を呼び寄せた。加藤は真田が去った後、リョーマの広告部門を無給で支えていたのだが、彼にはヤマト伝言FAXに対抗するQ2課金利用のファクシミリサービスの立ち上げが命ぜられた。
 その他にもリョーマから1人抜き2人抜き、全員を引き抜いて、遂にはリョーマ出身者で日産自動車に就職していた杉山全功まで引き抜いてしまう。リョーマに残ったのは大学1、2年生ばかりになったしまった。これではあんまりなので、椚座信というサーフィン好きのおじさんがやっていた企画会社の営業譲渡を受けて、なんとか中堅社員を確保するという有様。椚座は事業をリョーマに渡して、海に戻っていった。その後リョーマの広告部門は程なく潰れ、運転免許部門は99年まで続いたが、不渡りを出して倒産した。
 Qネットの社員は30人に急膨張したが、ほぼ全員関西人で、関西弁が社内公用語である。
 当時の真田には人を動かす強い力があった。三田倶楽部にいた佐藤修も役員としてQネットに参加してもらう。佐藤は後に折口雅博と組んでグッドウィルを起業、社長となる。
 番組数もアクセス数も膨張的に伸びていく。同じマンション内にもう一部屋借りたがそれでも足りず別ビルも借りる。社内はほぼ毎日パニック状態であった。学生気分など吹っ飛んで、玉置も西山も鬼気迫る勢いで机に向かっている。そうした幹部の姿勢は社員に伝染して、異様に張り詰めた空気の中で全員が自分の仕事に立ち向かっていく。自分がやるしかない。他の誰もこの仕事をやってくれないからだ。日が暮れても仕事は終わらず、日付が変わっても仕事は終わらず、2時ごろになって真田が「よーし、飲みに行くぞう」と終業を宣言をして六本木や恵比寿に繰り出す。そして翌朝10時からまた机に向かうという毎日だ。
 社員全員が「僕らにはできないことはない」と信じていたし、それは事実だった。まず90年8月に大阪でマンションを借りて電話線を引っ張り、パソコンに繋ぐ。人一人を張りつけて営業も行わせる。この大阪Qネットセンターに続いて名古屋、福岡にもセンターを開設し、90年末には札幌にもオープン。Qネットの社員たちは自分で電柱を立てて電設工事までやっていた。

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