HOME > 運営者人事考課 > 12-13イタリア旅行 > 12-13イタリア旅行 イタリア統一運動(リソルジメント)とは

イタリア統一運動(リソルジメント)とは

 イタリアは中世以来、南部のナポリ~シチリアは、フランスやスペイン、ドイツに領有され、イタリア半島の中央は法王領が中断しており、北部はコムーネが乱立していて18世紀にはオーストラリアに支配されていて、バラバラだった。
 独立機運はナポレオンによる占領から始まった。だから今のイタリアの国旗は、独立運動の時に使用された3色旗になっている。ナポレオンの支配下でイタリア北部にはフランス式の制度が積極的に取り入れられ、近代化が進んだ。
 ナポレオンが敗北した後、ウィーン会議でミラノなどのオーストリア領土は再復して、イタリアの中で独立していたのはサルデーニャ島に逃げていたサボイ家のサルデーニャ王国だけになる。そもそもこのサボイ家も、もともとはフランスの貴族である。またこのころシチリア島はイギリスが支配し、地中海ににらみをきかせていた。

マッツィーニマッツィーニ その後イタリア北部では革命が頻発するが、多くが惨めに失敗する。フリーメーソンの後ろ盾などで秘密結社や政党が各地で活発に運動を行う。その思想的背景として重要だったのが、「個人の権利を重視するよりも、より望ましい社会を意識するべきだ」とする空想的社会主義であるサン=シモン主義の思想だった。この思想を得て、それまでバラバラに権利主張をしていたイタリア人が初めて統一イタリアを強く意識することになる。
 この時期の独立運動の主要な指導者だったマッツィーニが先導した革命と第一次独立戦争は、ローマでローマ共和国を成立させるが、当時のローマを支配していたローマ法王ピウス9世はフランスに援軍を求めフランスはローマに出兵、ローマ共和国はフランス軍に鎮圧される。

 この当時、トリノを中心に北部イタリアを支配していたサルデーニャ王はこの第一次独立戦争の失敗の責任を取って退位する。その後に即位したのが、統一イタリア初代の国王となるヴィットリオ・エマヌエーレ2世だ。この国王は憲法順守の姿勢をとる。つまりイタリアでは、憲法のある国の方が少なく、法による支配など確立していなかった。そこでちゃんとした立憲制=「王は君臨すれども統治せず」という姿勢を演出したヴィットリオ・エマヌエーレ2世の偶像が、この後の国家統一のシンボルとなっていくわけだ。

 またこの時期もう一つ重要だったのが、教会からの世俗権の剥奪である。イタリアでは教会が多くの土地財産を所有し、教育権も独占していたが、これらを弱体させることが国家統一にとって極めて重要で、ガダーニョ、カヴールなどの国家指導者はこれを進めていった。
 カヴールはフランスのナポレオン3世と密約を結び、中部イタリアをオーストリアから取り戻す戦争にフランスを引き込むことに成功した。この戦争で中部イタリアからオーストリアを追い出し、ここにサルデーニャ王国が進出するが、その際ニースやサボイなどサボイ家の本拠地をフランスに割譲するという屈辱をナポレオン3世はサボイ家に強いている。
 そもそもフランスは、強国オーストリアに嫌がらせをする範囲の中でサルデーニャ王国に協力してやろうと考えていたにすぎず、いざとなったら密約も裏切るつもりだった。ましてやイタリア統一などされてしまっては困るのだが、すでにイタリア国内では民主主義者を含めた熱烈な独立機運の高まりがあり、彼らもサルデーニャ王国を支持したため、ナポレオン3世もしぶしぶサルデーニャ王国のイタリア中部併合を認めざるを得なかったわけだ。

ジュゼッペ・ガリバルディジュゼッペ・ガリバルディ また、イタリアの統一.独立を目指すための義勇軍の存在も大きかった。南米で活躍し、武名を確立していたジュゼッペ・ガリバルディは、赤シャツ隊としても知られる義勇兵「千人隊」を組織する。彼はイタリア南部の統一を図るため、パレルモの革命勢力からの要請に呼応して、サルデーニャ王国の妨害をかいくぐって2隻の船でジェノバ港を出港し、シチリアに上陸する。この千人隊は旧式銃しか持っていなかったのに2万人以上の両シチリア王国軍相手に善戦し、南部イタリア併合のきっかけを作る功績を上げた。これもシリアの土地貴族の後押しがあったからだった。アメリカ人のサミュエル・コルトもピストルを援助した。
 ガリバルディはシチリアからイタリア半島を北上して、ナポリを占領する。さらにローマに進軍しようとしたが、サルデーニャ王国首相のカヴールは先手を取って北から法王領に進攻する。ガリバルディは民主主義者であったのだが、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世に心酔していたので、ローマへの進軍を止め、南イタリアの共和制国家樹立も行わなかった。

ガリバルディとヴィットリオ・エマヌエーレ2世進軍してきたガリバルディとヴィットリオ・エマヌエーレ2世を描いた画。立場も含めて非常に計算されて描かれている。

 こうして南部イタリアもサルデーニャ王国に併合された。そして国民投票と選挙を経て、1861年にトリノでヴィットリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王国成立を宣言する。
 この後1870年、ローマを1848年以来占領していたフランス軍が普仏戦争で留守になったすきを見計らってイタリア王国軍がローマに侵入し、やっとイタリア全体の統一が成ることになる。
 つまりローマというのは、一番最後に統一イタリアに加わった地域なのである。いかにバチカンというのが専横で厄介な存在であったかという証左だろう。

バチカンの国家併合についての風刺画バチカンの国家併合についての風刺画

 しかもこの強制的なバチカンの国家併合は、イタリア人の意識に大きな影を落とすことになる。理解しがたいところだ。バチカンはその後1929年、ムッソリーニと折り合ってラテラーノ条約を結び、国際社会の批判を浴びつつバチカン市国として独立を果たす。




red.gif

これはあくまでも個人的な備忘のための旅行記であり、ここに書かれている情報を利用したためにどのような不都合があったとしても、当方は一切関知しませんので悪しからず。