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1/2 オスティア・アンティカ

 オスティア・アンティカに再挑戦。昨日とまったく同じルートでやってくると、今日はちゃんと遺跡の入り口が開いていた。
商店の入り口商店の入り口。木戸で締めていた。 オスティアはティベレ河口に開かれた港で、ポエニ戦争のころは軍港として、その後ローマがシチリアやサルディーニャから、エジプトから小麦や食料品、その後を輸入する港となり、ローマの規模が大きくなったためクラウディウスの時代、トラヤヌスの時代に相次いで外港がすぐそばに作られると、それらの港をコントロールする町として栄えた街だが、4世紀以降に川の土砂が大量に輸入して埋まってしまい、見捨てられてしまった。
 そのため帝政期のローマ町並みを比較的良い保存状態で見ることができる遺跡である。
 19世紀半ばに、当時の法王によって発掘が始められ、すでにほとんどの発掘は終わっている。
 とにかくローマ市街と違って人が少ないのがよい。

劇場の正面入口劇場の正面入口 遺跡の入り口を入ると、ローマからの街道なので門の外にはご多分に洩れず墓がある。
 ローマ門を入ると、道沿いにモザイク画で有名な浴場の遺跡があるのだが、主要なモザイクはほとんど養生シートで覆ってあるため見ることができない。これは冬場だからなのか、いつもそうなのかは私にはわからない。
 消防士の家とか、お約束の4000人ほど入る半円形の劇場もあり、この正面入り口の部分は相当よく残っている。
 その裏の商工組合の遺跡では、各組合の商売に応じて組合のスペースの前にモザイク画が描かれていて面白い。やはり海に関係するものが多いので、船や魚、イルカがたくさん描かれている。

 ディアナの家と呼ばれるインスラの通りでは、インスラの1階、2階がかなり完璧な形で残っており、インスラの2階に登ることもできる。居酒屋(「ポピーナ」という)の店先が完全に残っている。カウンターやメニューを描いたフレスコ画、床面のモザイクなどが、当時をしのばせる。
 各商店の戸口は木の板で戸締まりしていたのだが、その木の板をはめていた大理石に刻まれた溝もちゃんと残っている。午前中働いたローマ人たちは、午後浴場に行って、夜は居酒屋で酒を飲んで、インスラの上にある自分の家に帰って寝たのだろう。非常に面白い。
 酒屋ではワインを入れた土亀が大量に土中に埋めてある。
 また魚屋では、魚をさばくための大理石のテーブルが残っており、血や臓物を洗い流すためにこのテーブルは微妙な傾きを持たせてある。

インスラの通りインスラの通りが2階まで残っている。

居酒屋のカウンター居酒屋のカウンター。ほぼ共通規格だ。

魚屋のまな板テーブル魚屋のまな板テーブル。観光客もうれしそう。

 歩き疲れてカフェテリアでビールを飲む。人懐っこい犬が近づいてきたので相手をしてやる。
 それから遺跡から出てきた彫刻を展示している博物館に行く。ここは非常によく整備されていて、門にあった有翼の人物像や、有名なキューピットとプシケの像と、この港が砂に埋まる前のローマの皇帝たちの像などを見ることができる。

 博物館でとりわけ興味深いのが、いろいろな宗教の石像である。
東方由来のミトラ教は牛などのいけにえの喉を切って血を神に捧げる習慣があるが、そうした生贄を殺す瞬間を石像にしたものが発掘展示されている。ローマは多神教なので、主要三神の信仰さえ否定しなければ、どの宗教を信仰するのも自由だった。
 遺跡の中にはキリスト教の教会やミトラ教の浴場があるだけでなく、驚くべきことにこのオスティアの門の外には、ローマ帝国が古代イスラエルを滅ぼしたユダヤ戦争後のディアスポラの時代のシナゴーグすら発掘されている。
 ローマはユダヤ教を完全に否定したわけではなかったということだ。

ミトラ教の像ミトラ教の像

ニーハオトイレニーハオトイレ

オスティア・アンティカ

オスティア・アンティカ

オスティア・アンティカ

 それからフォロを見て、アウグストゥスが作った巨大な神殿を見て、ニーハオトイレの公衆便所を見て、いくつかの浴場や邸宅(ドムス)の生き生きとしたモザイクを見て、また元来た街道を引き返して見物は終わりである。
 遺跡には草が生い茂っているので夏場は見物は大変かもしれない。
 遺跡が閉まる4時前に門を出る。



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これはあくまでも個人的な備忘のための旅行記であり、ここに書かれている情報を利用したためにどのような不都合があったとしても、当方は一切関知しませんので悪しからず。