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 確かに日本にも、日本企業にも、優れた点はたくさんあるんだよ。というか、これだけでかい国なんだから、ポートフォリオ的に見て景気の牽引役になる産業がどこかにあるのはあたりまえだよね。

 問題は、そういった議論を振りかざしている抵抗勢力政治家や亀田部長のような守旧派の本人たちとは、そうした所属組織の持つ優れた点と無関係だということだよ。つまり彼らは決して、「自分はこういう優れた能力を持っているんだから、オレの意見を信頼してほしい」とは言わないんだよね。そうじゃなくて、「自分の会社や自分の国には優れたものを持っている者が誰かいるはずだから、このままで問題はないんだ」と言い切って恥ずかしいとは思わない人たちなわけ。

 当事者意識がないだけではなくて、自分の属している組織と自分自身を分けて考えることができないくらい、彼らは組織に一体化していて、しかも「組織に依存している」という自覚が全くないからおめでたいんだよ。

 自分の母親に抱かれている状態で初めて安心できる子供が、親に抱かれたままで、ほかの子供に喧嘩を売っているようなもんですね。とても自立した大人のすることとは思えないです。
 まったくぅ、“個無きじじい”なんだからぁ。

 なんだい“子泣き爺”って?

 「個」としての自分がないから、“個無きじじい”なんですっ!

 わははは、そりゃおもしろい。しかもカイシャに抱きついて抱き合い心中しようとしてるしなあ。
 逆に個人として自立していないからこそ、ジコチューでいられるということかな。幼児レベルの社会性認知だよな。

 だいたい、わたしの感覚では、「ウチのカイシャは」という表現に違和感がありますよ。英語なら、“In XXX's case(XXXの事例では…)”, “From my experience, at XXX(私のXXXにおける経験上…)”という表現をするわけで、“My company”というのは自分が所有している会社ですもんね。まあ、亀田部長には「オーナーは株主である」という認識はぜんぜんないみたいですから、彼からすると正しい表現なのかもしれませんが……。

 ははは、確かにそうだね。そのようにピラミッド組織に自分を同化させてしまっている人が、他人と初めて会ったときにどうするかというと、まず最初に「コイツは敵か味方か」をはっきり判断しようとするんだ。

 どっちつかずと言うか「中立」というのはなくて、「世の中には自分の属する組織にとって、敵か味方かしか存在しない」と考えている。そして敵に対しては、相手との間に高い壁を作ってコミュニケーションはまったく拒否してしまう。

 戦争中の日本では、敵性言語である英語は一切禁止されて、野球の「ストライク」が「よしっ!」になってしまったんだよ。その間にアメリカ軍は日本語の専門家を一所懸命育成して、暗号解読してミッドウェー海戦で敵の主力空母を4隻沈めたんだから、対照的だね。

 コミュニケーションに対する姿勢がまるっきり違いますからね。

 日本では、もし相手が自分の味方だと判断したら、必ず身内に引きずり込もうとする。そのときに肝心なのは、相手が自分より目上か目下か、上下関係をまず判断することなんだよ。目上であれば黙って従えばいいし、目下であれば命令すればいいだけだから、やっぱりお互いの意見をたたき合わせて折り合いをつけるようなコミュニケーションをとる必要はない。

 つまり地位が確定すれば、それによって本人の意見の重要度が決まる。だから、全員の意見を出し合ってよりよい結論を得ようという動機がまったくないシステムだと言えるだろう。

 「エライ人、権威のある人、影響力のある人の意見が、ストレートに正しい。小数異見はどんなにまっとうでも、賛同者が少なければ正しくはない」……という正邪の判断をする。そうやって意思決定が行われているような気がするなぁ。

 それって権威主義的ですね。「意見」はあくまでも意見でしかないんだから、誰が言ったのかは問題ではなくて、それが目的合理性を持っているかどうかを考えないと、おかしなことになるはずなんですけど。

 よく亀田部長が、「うちの会社は体育系だから」と、わけの分からない特徴づけをしてますけど、いま佐々木マネージャーがおっしゃったことって日本の学校の体育会の特徴のような気がしますね。

 ははは。ぼくもついつい「ウチの会社」って言っちゃうけどね。まあこれからの時代、「ウチは体育会系だから」と言っている会社は危ないな。

人間力とは、「大人になること」と見つけたり

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