仙波敏郎愛媛県警巡査部長に聞く「警察裏金告発の行方」

仙波敏郎 愛媛県警巡査部長に聞く「裏金告発の行方」

 

メディアのあり方を正しく理解し実践する.2


岡本呻也

 その中で、非常にエポックだったのが、彼にとって自分が産経新聞をやめるきっかけになった事件でもあるのですが、まさにジャーナリズムの根幹にかかわる問題が、まさにこの愛媛の地で起こりました。
 それは昭和59年に起きた、愛媛県による日刊新愛媛の取材拒否問題です。

 東さんは、坪内寿夫が出していた日刊新愛媛をどう思っていたか。
 日刊新愛媛は、過ちを犯しがちだが学習により是正される可能性があった。権力に迎合しないい、新聞本来の姿に近い新聞だ。
 日刊新愛媛は記者としては未熟な人が多くて、むちゃくちゃやっていたことは事実なんです。しかしそれよりも何よりも、新聞にとって重要なのは、権力に迎合しない姿勢を持っているかどうか。権力と向かい合うかどうかなんです。その意味では東さんは、この新聞を評価していたわけです。

 この取材拒否問題のきっかけになったのは、松山地域での新設県立高校の誘致問題でした。この高校について松山市と砥部町が綱引きをやっていて、どちらに高校を作るかは愛媛県が権限を持っているわけですが、自民党愛媛県連の幹部が松山市に対して、砥部町の方が地価が安いわけですから、松山市に「その差額分を負担しろ」と発言したわけです。これは地方財政法違反になります。
東玲治 東さんと読売新聞と日刊新愛媛がこの話を記事にしました。日刊新愛媛は県政批判ばかりやっていましたが、この記事を利用して愛媛県は日刊新愛媛に取材拒否を申し渡すことになったわけです。
 東さんと読売新聞に対しては取材拒否はされませんでした。なぜならばそれは白石知事の政治的な手法なんですね。取材拒否なんてしたら、記者クラブが反発するのは目に見えています。これ対して白石知事は、日刊新愛媛だけを記者クラブから隔離してしまおうという作戦でした。県紙を標榜する愛媛新聞は、日刊新愛媛に部数を半分食われて青息吐息だったから日刊新愛媛を擁護するはずはないし。後に白石知事は、「もしあのとき記者クラブが結束して取材拒否反対を唱えていたら、自分は負けていただろう」と述懐しています。
 しかし老練な政治家と、ひよっこ記者どもの戦いは白石の方に分があったと見えて、記者クラブの結束は崩壊し日刊新愛媛への愛媛県の取材拒否をなしくずしに認めることになってしまいます。このような取材の自由を脅かす大事が起きているのに、日本新聞協会もさっぱり腰を上げませんでした。
 大学生だった僕はこれを横目で見ていて、役所が特定メディアに対する取材拒否をするなんて、憲法違反に近い、とんでもないことが起こっていると思いました。愛媛県はどうしようもないにしても、新聞協会のあいまいな態度は自殺行為だと思いましたね。
 
 東さんはその時どうしたか。愛媛県から支局長にかけられた圧力で、なかなかこの問題に゜ついて書かせてもらうチャンスがもらえなかったそうなんです。しかし粘り強く支局長と交渉して、小さなコラム記事を書く許可をもらい、以下のように書きました。
 「自民党県連の幹部たちが負担を求めたのだから新愛媛の記事は事実」
 「自分もそれを聞いたぞ」というとても小さな記事です。でもその記事について、彼はこのように解説しています。
 この小さな記事によって彼らはじわじわ追い詰められていく。突きつけられた事実について何のリアクションも起こさなかったことは、一貫性を欠くものとして、彼らを不利にするだろう。
 彼らというのは愛媛県のことです。書くことが、ジャーナリストの戦い方なんです。弁護士の先生方は、裁判に勝つのが闘い方なのでしょうが、ジャーナリストの場合は、その時にあった事実を記事にし、それに対する相手のリアクション、コメントをきちんときちんと押さえていくことにあるんです。つまり言質を取るということが大切なんです。

 だから、「聞いてもどうせ何も言わないだろう」じゃだめなんです。相手にマイクを突きつけて聞かなければならない。それを報道すれば、そのコメントと現実との間に、後で齟齬が出てきます。それが突破口になる。そうやって相手を追い詰めていくのがジャーナリストの戦い方です。

 この取材拒否問題は、日刊新愛媛が愛媛県を訴えることになり、東さんは日刊新愛媛側の証人として法廷で証言をしました。それは東さんにとっては、自分と同じことを書いた新聞が、「その事実はない」として虚偽報道で取材拒否にあっているわけですから、自分の信用にもかかわる問題で、証言するのは当然のことだったと思います。
 しかし愛媛県は東さんの証言を妨害するために、産経本社やフジテレビまで使って圧力をかけてきました(県の圧力に応じたメディア側の不明は目を覆いたくなるほど惨めなものです)。東さんはそれに臆することなく証言をしました。
 しかし判決が出る前に、日刊新愛媛の親会社である坪内グループの経営は急速に傾き、日刊新愛媛自体も経営が成り立たなくなって、この裁判も昭和61年に日刊新愛媛の側が取り下げることになってしまいました。
 そしてそれまでの経緯から産経新聞にいづらくなった東さんも産経新聞を去ることになったわけです。悪いのは東さんのほうじゃないんですけどね。
 産経新聞を辞めた東さんは、日刊新愛媛の残党に頼み込まれて、第二地方紙を愛媛県で発行しようと奔走しますが、これはうまく行きませんでした。こうした東さんの動き方も、次に述べる東さんの持っている優しさのなせるわざだと思うのです。

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