お互いを個人として認め合う文化



運営者 それと、今回すごく思ったことがあって、それは、前からよく言ってますけれど、例えばたまたますれ違い様に手が触れ合ったり、肩が触れたりしたら、「ソーリー」とかいうじゃないですか。「ミ・スクージ」とか。

 たとえば夜遊んで帰ってきた時に、エレベーターでたまたま乗り合わせた人とでも、必ずあいさつするじゃないですか。その時に必ず相手の目を見るじゃないですか。つまり、その場をたまたま共有しているだけの赤の他人に対して、相手を個人として認識したんだということを必ず伝えるわけですよ。
 あれ、すごいと思いませんか。日本ではそんなコミュニケーションの必要はないんですよ。

 サービス業でもそう、ホテルでも、レストランでも、こちらがサービスしてくれる人を個人として認識していることを伝えないとおざなりなサービスしかしてくれない。でも伝えると、ぐっと近づいてくる。そのとき、こちらが何者か、どんなことに興味があるのか、なんでもいいからヒントを与えるといいと思うんですよ。
 ラヴェンナのレストランで、『ルネサンスの女たち』を呼んでいたら、ウエイトレスが「漢字が難しそうだ」と言うので、イザベラ・デステとかルクレツィア・ボルジアの絵を見せたら、とうぜん向こうは知っているわけで、そのあとぐっとサービスがよくなりましたね。

飯坂  なるほどね。日本だと、個人が個人を認めるというのは、強い者は弱いものをいたわる。という文脈でしかとらえられないんじゃないかな。

運営者 だけど街なかであった人だと、どちらが偉いのか、強いのか、よくわかりませんよね。

飯坂  そこは共通概念があるんですよ。

運営者 そうそう、タイは「微笑みの国」と言いますけど、なぜ微笑みの国なのかというと、初めて会った人の場合は、自分が相手より上なのか、それとも下なのかを、観察するそうなんですよ。
 観察をするためには間が開くでしょう、その間をつぶすためにとりあえず微笑んでおくということなんだそうです。微笑んでおけば、相手が自分より目上でも構わないじゃないですか。
 それで相手の格によって、あいさつの種類を変えるわけです。

飯坂  日本でいうと、お辞儀の角度を変えるということですね。

運営者 そのように相手が目上か目下かで対応を変えているわけです。では西洋社会でこれをやるかどうかですよ。

飯坂  少なくとも、パブリックスペースではないでしょうね。

運営者 公共の場所では、相手も自分も、対等の権利を持つ者として認識されますよね。 


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