台灣好好 日本よりも日本らしく 9

旅行土産話仲間 飯坂彰啓

日本への同化をリードした意外な人物



運営者 初代の台湾総督として樺山資紀がやってきたときに、「これから台湾は日本になる。皆さんは日本人になるわけなんだけど、もし日本人になりたくない人は財産を処分して島から出ていってください」という布告を出しました。その時5000人弱が台湾から出ていったそうです。それ以外の人は日本人になりました。
 それから日本の台湾支配が始まりました。総督の中には、桂太郎とか乃木希典とか児玉源太郎、明石元二郎なんかがいるわけです。民政長官として後藤新平が活躍したんですよ。
 1920年くらいまでは、かなり激しい武力抵抗があったそうです。それで日本は警察署をいっぱい作って警察支配をしました。それから郵便制度を整えたりあらゆるインフラを一所懸命移植していったわけですね。
 1910年代になって、林献堂という人が、まず袁世凱政府を視察しに行きます。それで「どうやら日本の台湾支配は、世界情勢を考えると当分変わりそうにないぞ。その中でうまくやるにはどうするのが賢いかもっと現実的に考えよう」ということで、その後日本の奈良県にやってきて、「日本の有力な政治家を紹介してほしい」と頼むんです。この柔軟さ、現実志向が、●国人とぜんぜん違うところですよね。
 それで林は板垣退助に会って、板垣を台湾に連れてくるんです。

飯坂  ほう。

板垣退助@高知城板垣退助@高知城運営者 そして、1914年に台湾同化会という団体を組織します。「同化」というのは日本に同化するという意味ですよ。そして板垣退助は林献堂と一緒に台湾全土を講演して周り、「日本は別に台湾を植民地にして収奪しようと考えているのではなくて、一緒にアジアの中の強国として欧米列強に対抗できるようになりたいんだ」と説いて回ったそうです。
 これが青年運動として盛り上がりを見せ、一大運動になったそうです。当然ながら当局は、そういう政治運動は弾圧したいのですが、板垣退助は弾圧できないですよね。

飯坂  扱いに困るよね。

運営者 困ったらしいんですよ。でもそういうわけで、「日本と同化するのも悪くないぞ」という考え方が全土に広まったのですが、板垣が日本に帰るとさっそく総督府は、台湾同化会の会計に汚職があったとして、それを口実に台湾同化会に解散を命じました。
 その後、台湾同化会の流れを汲んで民政会というのができるんだけど、こっちの方は内輪もめをして、ポシャってしまいました。次に台湾文化協会というのができて、やっぱり台湾全土を回って日本との同化について講演して回ったそうです。中心人物だった蕭某は、政治運動なので投獄されたらしいのですが、殺されなかったそうです。つまり1920年以降になると、日本に対する抵抗政治運動をしたとしても、投獄されることはあれ、殺されることはないという時代に入っていたようです(原住民族の激しい武装抵抗はあったようです)。
 それどころか、林献堂は1920年から1935年まで毎年毎年東京にやってきて、国会で「台湾にも国会に相当する参議会を設置して、民選議会をやりたい」と陳情していたらしいんです。それでどうなったと思います? 1935年に台湾で選挙が行われているんです。

議会設置請願運動の面々議会設置請願運動の面々飯坂  へぇー。

運営者 すごいですよね、これ。どういう植民地支配なんだ。
 板垣退助に教わったに違いない。西郷が西南戦争で倒れて不平士族の反乱は終わり、自由民権運動が始まったのにならったのでしょう。日本と同じプロセスを辿ってますね。ちなみに板垣が岐阜で演説会場で暴漢に襲われたとき、板垣を診察した医師は後藤新平だったそうです。「板垣死すとも自由は死せず」

 しかもこの時に台湾民衆党という政党までできてるんです。ところが、政党を作られてしまうと、政党は普通ほかの国の政党と交流するじゃないですか。そうすると日本が強圧的な政治をやっていることがアメリカなんかにばれてしまうでしょう。それはよろしくないからやっぱり政党は解散してくれということで、新警察法というのを適用して4年後に解散してもらったそうです。
 なんでも非合法ながら共産党まであったそうですよ。こんな緩い植民地支配があるかということですよ。

飯坂  共産党はもちろん、コミンテルンか中国共産党の細胞でしょうね。渡辺政之輔という昭和初期の共産党書記長が、1928年に台湾に上陸しようとして警官隊に襲われピストル自殺したという事件があったりしましたから、日本共産党の根拠地もあったはずです。

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