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徳川家康 相手を手玉にとって危地を脱す   ◆「人間力」エピソード集


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 うまく持っていけば、自分に敵意を持っている相手の気持ちも、変えることができるものである。

 1582年6月21日、明智光秀は謀反を起こし、本能寺で織田信長を弑逆した。このとき徳川家康は、安土城で同盟している信長の接待を受けたあと足を延ばして堺に遊びに来ていた。光秀の刺客は堺にも迫っているに違いない。家康は「一刻も早く領地に戻らねば」と考えた。そして伊賀越えのルートを選択した。

 一方、信長という支配者の死は日本全国に政治的な混乱をもたらした。世の中が一気に安定感を失ってしまったのである。それまでおとなしくしていた野盗が横行し、農民たちは日ごろ募っている領主への不満を爆発させて各地で一揆を起こした。
 伊賀へと山中の道を急ぐ家康一行だったが、運悪く800名ほどの農民一揆の群徒に出くわしてしまう。正面からぶつかれば多勢に無勢、なぶり殺しにされてしまうことは目に見えている。家康は刀の柄に手をかける近習たちを制し、「一揆の首謀者に何が望みなのか聞いてやるから、わしのところに連れてこい」と命じた。

 家来たちは「農民は話してわかる相手ではない」といさめたが、家康は「相手を落ち着かせて理性と打算を戻させれば話は通じるはずだ」と家来を暴徒たちのもとに向かわせた。

 やがてやってきた一揆の頭目たちを家康は床几に座って迎えた。頭目たちは「手向いせずに持ち物を全部出せ」と切り口上で迫ったが、家康は平然として、「そのほうたちを苦しめた領主はだれだったのか。その方たちは領主の年貢の取り立てが激しいから怒って決起したのであろう?」とたずねた。
 一揆の農民が、「すでに領主は打ち取り米倉を開いた」と答えると、家康は、「わしは駿河、近江、三河の領主である。武将は民を守るのが務めだ。わしはよくその方たちから話を聞いたうえで褒美を取らそうと思っているのだ」と話し始めた。

 話が意外な方向に進み始めたので一揆の農民たちは顔を見合わせた。
 「この乱世は羽柴筑前が中国から兵を戻し、わしが領地に戻って10万の軍勢を率いて戻ってくるまでの乱れだ。それまでおまえたちは他の村の同じ農民たちと一緒によく仲間を守ってやれ。その褒美としてこれをとらせる」と農民たちに金を与え、首謀者たちの名前を書きつけて「後日のために」と墨付きを与えた。
 さらに一揆の中から30人選んで道案内に立たせるよう農民たちに命じた。一揆の群れは墨付きと金をもらうと家康たちの前から消え去り、屈強な農民の若者が道案内に立ったのである。こうして家康は危地を出し、また治安の悪い中彼らの助けを借りながらなんとか無事に領地にたどり着くことができたのであった。

 徳川家康は、一揆は虐げられた農民たちの不安の爆発であることをよく知っていた。だから農民たちの存在と主張を認め、顔を立ててやることによって彼らの怒りを収束させ、味方につけることに成功したのである。

 徳川家康は、相手の望みをかなえてやることによって、見事に味方に引き入れる人間力を持っていたのである
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人間力とは、「大人になること」と見つけたり













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