HOME > メルマガ > 武田信玄の「鳴くまでまとう」開城工作

武田信玄の「鳴くまでまとう」開城工作   ◆「人間力」エピソード集


red.gif


 自分の意地で無駄な抵抗を続けるは相手を説得するには、どうすればよいだろうか。
 新田次郎の『武田信玄』に以下のようなエピソードがある。

 1570年1月、前年の三増峠の戦いで小田原北条氏の勢力を完全に抑えることに成功した武田信玄は、次に駿河に侵攻し完全に平定した。駿河の領主であった今川氏真は、妻の実家であった北条氏を頼って相模に逃れた。今川家は事実上滅亡したのである。
 しかし今川方の城で、武田軍の前に立てこもって頑強に抵抗する山城があった。花沢城である。今川氏は多くの家臣に裏切られて衰亡していったにもかかわらず、城主の大原資良は忠臣で、城を捨てようとしない。

 1570年1月4日、武田軍は花沢城に攻め寄せた。大原資良は楠正成の千早城のような戦いぶりで、城から出ては戦い、サッと引き揚げて武田軍を悩ませた。しかし矢玉が尽き、城が落ちるのも時間の問題となった。
 このとき信玄は、大原がなぜ主家である今川家が滅亡したのに闘い続けているのか不思議に思い探らせたが、どうやら大原は今川家に対する義理や忠義で戦っているということがわかった。それであるならば、なくなった今川家のために戦ってもしかたがないと説得すればよいだろうと考えたのである。

 そこで岡部正綱を降伏勧告の使者として派遣した。花沢城に入った岡部は大原に対して、「武田の精鋭相手にここまで戦ったのであれば武門の意地は立ったであろう。信玄の味方として降ればよし。それが嫌なら城を立ち退け。さらに城を立ち去るまでは、岡部自身が人質となる。また返事に3日間の猶予を許す」と申し述べた。

 これを受けて花沢城では軍議が開かれた。1日目の軍議では「城を枕に討ち死にしたい」という意見が優勢であった。しかし2日目になると、武将たちは家族に泣きつかれて、徹底抗戦の意思が砕け、「地位がそのままであるのであれば降伏してもよいかも」という者の数が増えてきた。そして3日目の軍議では、「城は開け渡してそれぞれ自由に道を選ぼう」という結論に至った。

 信玄は城を囲んでいた武田軍を2里後退させ、城兵を安心させて城から退去させた。大原は武田に降らず高天神城に落ち延びて、なおも武田に抵抗することとなるが、信玄の使者となった岡部は大原が安心できるところまで人質として連れ添っていったという。
 信玄は信念で戦っているものの気持ちを察し、3日間というたっぷりした時間を与えることでその気持ちを変化させて、彼らにとっても合理的な結論たどり着くの待つ忍耐力を持っていたのである。
red.gif


b.pnga.png

人間力とは、「大人になること」と見つけたり













人間力★ラボ人間力★ラボ
人間力★ラボ

人間力営業人間力営業
人間力営業

“オープンソース型ビジネスマン”の生きる道 目次オープンソース型ビジネスマンの生きる道


Better habits 社員研修 ビジネスマナー研修 新人研修

人間力ラボ 「人間力」とは相手の心に働きかけて、人を動かす力のこと