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石田三成と大谷吉継   ◆「人間力」エピソード集

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人は誰かに認めてもらいたい、ほめてもらいたい生き物である


 人間は「自分を認めてもらいたい、心の底から受け容れてもらいたい」という望みを持っている生き物だ。どんなに自信たっぷりに見える人でも、実は人知れぬコンプレックスを持っていて、誰かに受け容れてもらうことでやっと自信が持てるものである。

 親子の間でも殺し合いは当たり前、ましてや他人であれば裏切らない方がおかしいという戦国時代に、官僚的で思いやりのなさゆえに豊臣勢力の反目と崩壊を招いた張本人と目されている石田三成に、熱い友情を感じていた人物がいた。その名は大谷吉継。吉継は豊臣秀吉に、「吉継に百万の兵を与えて自由に指揮させてみたいものだ」と言わしめたほどの名将だったのだが、らい病を患っており、顔を白い布で覆い隠して戦場に臨んでいた。
 あるとき秀吉の催した茶会で、豊臣の武将たちは一口ずつ茶を飲んで次の者へ回す茶碗の回し飲みを始めた。しかし、吉継が口をつけた後の茶碗には、皆病の感染を恐れて飲むふりだけをしたり、ちょっと口をつけるだけであった。ところが、このとき石田三成だけは、まったく落ち着き払って吉継が飲んだ茶碗のお茶を飲み、おかわりすら所望したと言われている。他の武将は吉継に近づきもしなかったのに、三成だけが気軽に話しかけてくれた。吉継は面目を三成に救われ、心の中で三成に手を合わせて拝んだことだろう。

 一五九八年に秀吉が死去すると、多くの武将たちは豊臣方を離れ、家康になびいていった。吉継もまたその一人だった。

 一六〇〇年、家康は「会津の上杉景勝に謀反の兆しあり」との名目で上杉討伐軍を起こす。関が原の戦いの前哨戦となる会津征伐である。吉継もこの家康軍に合流するために所領の敦賀を立ったのだが、その途中で石田三成の居城である佐和山城へ立ち寄った。このとき三成は吉継に、「家康に対して挙兵しよう」と持ちかけた。吉継は「無謀であり、三成に勝機なし」と三度もいさめたのであるが、三成が気持ちを変えないことを知り、負ける見込みでありながら自分も三成を助けて西軍に加わると決意した。家康は「会津征伐が終われば吉継を一二万石に加増する」と約束していたので、その吉継が西軍についたことを知り、激しく動揺したと言われている。

 吉継は策謀をめぐらせて、家康方の諸将が上杉討伐軍へ合流するのを妨害する。そして一カ月後、家康は関ヶ原にとって返して天下分け目の関が原の戦いが起こる。
 合戦当日、吉継は西軍の首脳としてこの戦いに参加した。彼は病気のため馬に乗れないので、輿に乗って陣頭指揮を行った。五〇〇〇人の大谷隊は大奮闘し戦況は西軍有利に推移したのであるが、西軍であるはずの小早川秀秋隊一万五〇〇〇がいきなり裏切って大谷隊に突撃してきた。大谷隊は一時は数に優る小早川隊を押し戻したものの、さらにその周囲の西軍の武将の裏切りもあって衆寡敵せず壊滅し、吉継は戦場で自害した。彼の首は側近の手によって関ヶ原に深く埋められ、家康方に発見されることはなかった。
 この小早川隊の東軍への参戦が関が原の戦の勝負のわかれ目となり、石田三成は落ち伸びる途中で捕縛されて斬首の憂き目をみた。

 人望のなさで知られる石田三成ではあるが、大谷吉継のような有能な武将であっても「人に認められたい」という気持ちを持っていることをよく知っていた。そして吉継の命に代えての友情を勝ち取ることができたのであった。
 石田三成は相手を心から承認し、揺るぎない信頼を勝ち取ったのである。

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